結論

4歳の時、火傷によって右手の小指を失ってしまい、その1年後には広島に投下された原爆の被害を受けました。

元プロ野球選手で野球解説者の、張本勲さん。

この人について、どんなイメージを持っていますか?

『サンデーモーニング』のスポーツコーナーで、コメンテーターとして「喝!」「あっぱれ」などと言っている姿がお馴染みでしょうか?

最近では、東京オリンピックの女子ボクシングで、入江聖奈選手が金メダルを獲得したことに対する発言が話題になりました。

そんな張本さんは、1940年生まれの81歳で、プロ野球選手としては通算安打数などの日本記録を保持している、偉大な選手でもあります。

また、日本のプロ野球界において、500本塁打と300盗塁の両方を達成した唯一の選手にもなります。

しかし一方で、その幼少期は壮絶なものでした。

4歳でなくなった右手の小指、5歳での広島での被爆など、彼の過酷な幼少期のエピソードをご紹介していきます。

在日韓国人二世

張本さんは、広島県出身ですが国籍は韓国になります。

両親はどちらも韓国人で、いわゆる在日韓国人二世になります。

お父さんはチャン・サンジュンさん、お母さんはパク・スンブンさんといい、張本さんが生まれる少し前に広島に移住したそうです。

張本さんが生まれて少し経ったころ、お父さんは韓国で急死。それでもお母さんは韓国には戻らず、広島に残ることを決意。

昼夜働き、張本さんを含む4人の子供を必死に育ててくれたそうです。

張本さんはそんなお母さんへの感謝の気持ちとして、プロ野球選手になった時の契約金で、二階建ての家をプレゼントしたそうです。

壮絶な幼少期

張本さんは4歳のとき、ヤケドによって右手の小指を失ってしまいます。

焚き火でサツマイモを焼いていたところ、バックしてきた三輪トラックに轢かれてしまった張本さん。

その衝撃で、焚き火で右手を大やけどしてしまいました。

右手の小指は焼けただれ、中指と人差し指は癒着。親指と人差し指は曲がったままになってしまいました。

後ほど手術しましたが、元通りにはなりませんでした。

右手の小指を失ってから約1年後、今度は5歳の時に広島の自宅で被爆します。

自宅は爆進地から約1.5kmのところにあり、爆風で自宅は倒壊。

雷のように激しく光る爆風に巻き込まれた張本さん。

咄嗟に母親が張本さんと3歳上の姉に覆いかぶさり、張本さんは大ケガをすることもありませんでした。

お母さんは、割れたガラス片で背中が血だらけになっていたものの、命に別状はありませんでした。

爆進地から1.5kmのところにあった自宅は壊れてしまったものの、ヤケドなどは酷くなかったようです。


しかし、張本さんの兄と姉は勤労奉仕のために自宅から出ていたため、原爆による被害を大きく受けることになってしまいました。

お兄さんは腕にヤケドを負っただけですみましたが、お姉さんは全身を大やけど。

色白美人として友人たちからも評判のお姉さんだったそうですが、見る影もないほど顔も無惨に焼かれてしまったそうです。

張本さんはこの時のことを、「人ってこんなに焼けるんだな」と思った、と話していました。

お姉さんのヤケドは手の施しようがなく、翌日に息を引き取ったそうです。

喉が渇いたというお姉さんに、ブドウの実を取ってきて口の中に搾ってあげたところ、

「ありがとう」と言われたことは、今でも覚えているそうです。

最愛の姉を原爆で失った張本さんたちは、その後しばらくは亡くなった姉の話や原爆の話は封印していたそうです。

左投げ左打ち

張本さんは元々右利きでしたが、野球をするにあたって左投げ左打ちになりました。

理由は、先ほどご紹介した4歳の時の焚き火のヤケドで、不自由になった右手ではボールがきちんと持てなかったから。

利き手を変えるというのは、口で言うほど簡単なことではありません。

張本さんは、並々ならぬ努力をしてきたことでしょう。

張本さんがプロ野球選手を目指して野球に打ち込んでいる時は、お兄さんはタクシー運転手として働いていました。

お兄さんの仕送りなども受けながら、頑張ってきたというエピソードもありました。

張本さんは小さい頃から、家族など身近な人との支えを受けてきたからこそ、これまでの実績を残すことができたのでしょう。

守備が下手だった理由

日本のプロ野球で初となる3000本安打を達成し、通算安打3085本という日本記録を保持している張本さんですが、守備はかなり下手だったと言われています。

当時は言い訳になってしまうため黙っていたそうですが、不自由な右手ではグラブをうまく扱うことができなかったそうです。

張本さんのグラブは特注品であったものの、やはり不自由な右手ではグラブをきちんと持てなかったのでしょう。

ボールをグラブの中におさめるのが苦手だった、と話していました。

しかしそこで悲観的になるのではなく、

「できないものはできないから、別の部分でカバーしよう」と考えたという張本勲さん。

守備が下手なのは仕方がないと割り切り、その分打者として頑張ることを決めたそうです。

その結果が、日本プロ野球選手初となる3000本安打、通算安打数3085の日本記録へと繋がったのでしょう。

まとめ

いかがでしたか?

解説では辛口なコメントが目立つ張本勲さんですが、それも幼少期の壮絶な体験があったからなのかもしれません。

女子ボクシングへの発言が問題視されていますが、今後どう対応していくのか注目していきたいですね。