結論

死球に怒って乱闘騒ぎを起こした結果、連続試合出場記録がストップしたり、監督の起用法に怒りを露わにするなど、プレー以外も規格外でした。

2016年に麻薬取締法によって逮捕された、元プロ野球選手の清原和博さん。

今ではこのイメージが強い人も多いかもしれませんが、実は野球人としてとてもすごい人だったのです。

野球の実績としてもそうですが、人間の豪快さでも常軌を逸する凄さでした。

そんな清原和博さんについて、ご紹介していきます。

プロ野球選手となるまで

大阪府岸和田市生まれの清原さんは、小学3年生の時リトルリーグに入り、彼の野球人生が始まりました。

リトルリーグの入団試験の時、すでに身長は155cm、遠投でも70mを投げる規格外っぷりだったようです。

そして、4年生からは6年生に交じり、レギュラーを獲得していたようです。

小学生は年次が1つ違えば大きく体つきも違うのが一般的ですが、これだけ見てもすごいですね。

そして高校はPL学園に入学し、全国から猛者が集まる中で1年生から4番に座り、同級生の桑田真澄さんと共に、

「KKコンビ」として甲子園で名を馳せ、春夏通算5回の出場を果たしています。

満を持してドラフト会議の季節。

清原さんは、小さい頃からずっと憧れていた巨人にラブコールを送っていました。

プロ志望を明確にしていた清原さんの盟友、桑田真澄さんは一方で早稲田大学への進学を明言しており、

ドラフトは清原さんにどれだけ1位指名が競合するかということが話題の中心でした。

結果的に、清原さんには6球団が1位指名しましたが、なんとラブコールを送っていた一番行きたいと思っていた巨人は、盟友の桑田真澄投手を1位指名したのでした。

ドラフト後の会見でも、直接巨人への苦言を述べることは無かった清原さんでしたが、

交渉権が西武ライオンズに決まった喜びは一切なく、口を真一文字に結んで、涙を浮かべながら淡々と答えていました。

その記者会見を見ていたPL学園の中村監督は、その後の会見で

「僕の所に来るかどうか分からないが、やはり巨人とはお会いしたくない。清原があれだけ希望を言っていたのに…。巨人軍のやり方は嫌ですね。指導してきた私とすれば、清原と桑田が力を合わせて甲子園でやってきて、2人の友情も固い。それを引き裂くような結果になって、清原も複雑だと思いますよ」

と述べています。

しかしだからといって、夢見たプロ野球選手に進まないという選択はなく、西武ライオンズ・清原和博選手が誕生したのでした。

現役時代の活躍

高校野球では「超高校級」と言われていた逸材でも、すぐプロの世界で活躍できるほど甘い世界ではないのは当然です。

しかし、すべてが規格外だった清原さんは高卒1年目ながら126試合に出場し、打率.304、31本塁打、78打点という記録を残し、新人王を獲得しました。

清原さんのデビュー元年となった1986年は、1シーズン130試合だったので、ほぼすべての試合に高卒ルーキーが出場していたことになります。

その後スターとなった松井秀喜選手が、高卒1年目は57試合出場で打率.223、11本塁打。

イチロー選手が40試合出場で打率.253、本塁打ゼロと比べても、規格外なのがよく分かるでしょう。


清原さんが在籍した当時、西武ライオンズは森祇晶監督が非常に強いチームを作り上げおり、

リーグ優勝8回、日本一を6回成し遂げていますが、そんな西武黄金時代を支えたのが3番の秋山選手、

4番の清原選手、5番デストラーデ選手の「AKD砲」でした。

こうして、高卒1年目から活躍し続けた清原さんは、FA権を獲得した1997年に、憧れていながら指名されなかった思いを晴らすべく、読売ジャイアンツへ移籍します。

そしてジャイアンツでは、松井秀喜さんと「MK砲」と呼ばれ、強力打線の中心を担いました。

成績以外も規格外

清原さんの規格外ぶりは、その成績だけではありませんでした。

西武ライオンズで4年目の22歳の時、ロッテの平沼投手からのデッドボールに、怒りを爆発させて大乱闘を起こします。

当然ながら退場処分となり、制裁金30万円と2日間の出場停止処分を受けることになりました。

これにより、490試合続いていた連続試合出場がストップしてしまうことになりました。

強打者ゆえに厳しい配球をされることの多かった清原さん。

なんと被四球は196という日本一の記録を持っています。

特に、当時阪神タイガースに所属していた藪恵壹投手からは、現役時代6度のデッドボールを食らっています。

その風貌から、「番長」と呼ばれるほど恐れられていた清原さん。

デッドボール後にマウンドまで来られる恐怖は、並大抵ではなかったでしょう。

しかし、それでも厳しいところを攻めていった藪投手の度胸には脱帽ですね。

また、当時エース級の投手からは力での真っ向勝負を挑まれることが多かった清原さん。

野茂英雄投手や伊良部秀輝投手などは、あえて自慢の直球だけで勝負を挑んできました。

この力と力の真っ向勝負をファンはしびれながら見ていたのです。

しかし巨人時代の2005年、大差のついた試合で阪神タイガースの藤川球児投手と対戦した際、藤川投手が決め球にフォークボールを投じたことに怒り、

「ケツの穴小さいわ」などと、男と男の真っ向勝負ができなかったことを嘆く場面もありました。

また、巨人ではすでにベテラン選手の1人となっていた清原さんは、2005年に故障でスタメンを外れます。

故障から復帰して、久々のスタメンとなった試合、堀内監督は清原さんを7番においてスタメン起用します。

これに怒りを爆発させていた清原さん。

その怒りをパワーに変え、4回にはバックスクリーン直撃の特大ホームランを放ちます。

そして、ベンチ前で出迎えた堀内監督のハイタッチはしっかりスルーする「ハイタッチ拒否事件」なども起こしています。

こうして、起用方法について堀内監督とは確執が続いた清原さん。

さすがに監督と確執を抱えていても、野球というチームスポーツで良いことは無いと諭され、和解するために「堀内命」と書かれたTシャツを着込んでいた清原さんですが、

よく見るとその裏には「獲る」とも書かれ、気の強さも規格外な選手でした。

その後も故障なども続き、ジャイアンツ時代で規定打席に達することができたのは3年だけで、規定打席に達しての3割越えは記録できませんでした。

ジャイアンツを戦力外通告となり、オリックスへと移籍しましたが、大きな成果を残すことはできず、2008年にプロ野球を引退しました。

まとめ

引退後は野球評論家としての活動を行っていましたが、ドタキャンや撮影中にキレて帰宅するなどの素行不良からうまくいきませんでした。

この頃から、清原さんのおかしな行動が週刊誌や新聞を賑わすようになります。

そんな中、2016年に衝撃的なニュースが飛び込みました。

なんと強制家宅捜索の結果、覚せい剤取締法の所持容疑で逮捕されたのです。

大記録をいくつも打ち立てた一流選手の薬物逮捕。あれだけプロ野球選手として成功してきた人がなぜ、と騒然となりました。


今まで、その恵まれた体格とセンスで超一流の道を歩み続けてきた清原さんが、

野球選手でなくなった時に感じた喪失感と、自己無力感がそうさせたのかもしれません。

もちろん本人の努力もあったのだとは思いますが、一度スターとしての地位を味わってしまうと、

そこから落ちていく自分を受け止めるのはなかなか大変なのかもしれません。

しかし現役の時のような、迫力とオーラのある清原さんがまた違うステージで帰ってくることを、ファンとしては温かく見守っていきたいですね。