結論

貧しい家庭で高校に通いながら高級ホステスで働き、その際に当時のインドネシア大統領に見そめられて夫人となったものの、クーデターにより失脚。その後も紆余曲折を経て日本で芸能界デビューを果たしました。

デヴィ夫人ことデヴィ・スカルノさんといえば、今や日本でバラエティ番組などで活躍している姿が印象的だと思います。

そんなデヴィ夫人は、もともとあるインドネシア元大統領の第3夫人でした。

そんなすごい人物が、なぜ日本で活動しているのでしょうか?

今回は、デヴィ夫人の若い頃のエピソードをご紹介します。

純日本人

その名前と美しい顔つきから、一見すると外国人に見えるデヴィ夫人ですが、彼女はれっきとした純日本人です。

スカルノ元大統領と結婚する前の名前は、『根本七保子』さんといいます。

今でこそセレブなイメージもあるデヴィ夫人ですが、その生まれは決して裕福ではありませんでした。

1940年、東京の西麻布で生まれましたが、お家は借金を抱えていました。

また、太平洋戦争の真っ只中だったこともあり、デヴィ夫人と母親と弟の3人で、福島県に疎開したこともありました。

デヴィ夫人は中学校を卒業した後、定時制の高校に進学します。

それと同時に生命保険会社に入社し、昼間は生命保険会社で働きます。

お昼休みや休憩中は、近くの喫茶店でバイトをするなど、

『高校生、生命保険会社の社員、アルバイト』という、2足のわらじならぬ3足のわらじ状態だったのです。

しかし、そんな3足のわらじ生活は、長くは続きませんでした。

デヴィ夫人が16歳のとき、大工だったお父さんが他界します。

稼ぎ頭のお父さんが亡くなったことで、家計は火の車に。

デヴィ夫人は弟を学校に通わせるため、定時制の高校を中退します。

その後、赤坂にある有名高級クラブ『コパカバーナ』でホステスをし始めます。

『コパカバーナ』のお客さんは、大半が海外の財政界の大物。

そのため、「いつかチャンスが来るかも」と自分磨きは怠らなかったそうです。

コパカバーナのホステス時代のうちに、英語や日本舞踊やダンスなども習得しています。

スカルノ大統領との出会い

デヴィ夫人が19歳のとき、友人と映画を見るために待ち合わせしていた旧帝国ホテルで、偶然にもインドネシアのスカルノ大統領一行と遭遇。

当時、スカルノ大統領は来日パーティーのため、旧帝国ホテルを訪れていました。

友人との待ち合わせをしていたデヴィ夫人に、なんとスカルノ大統領が一目惚れ。

スカルノ大統領はデヴィ夫人のことを見初め、大統領の側近が直々に、後日開かれるパーティーにデヴィ夫人を誘ったそうです。

その頃、海外の大富豪から求婚されていたというデヴィ夫人ですが、スカルノ大統領と共に生きることを決意。

インドネシアは一夫多妻制で、スカルノ大統領には妻が4人いましたが、

日本人で海外の大統領の妻になったのは、後にも先にもデヴィ夫人のみです。

デヴィ夫人は海外の大富豪からの求婚を断り、スカルノ大統領のもとに行くことを決めます。

もちろん日本では、日本人の大統領夫人が誕生するということで大騒ぎ。

デヴィ夫人の実家には、執拗なまでに連日取材が訪れました。

この騒ぎで、元々体を壊していたデヴィ夫人のお母さんは亡くなりました。

さらにお母さんが亡くなった2日後、弟も自ら命を落としてしまいます。


デヴィ夫人の弟は、お母さんの死に目に会えなかった無念と、

セールスマンに全財産を奪われるという詐欺にあい、自死を選んだそうです。

デヴィ夫人がスカルノ大統領の妻になると決めたことが、これらの悲劇を招いてしまったとも言えるのです。

デヴィ夫人は、今でもこのときの無念さと悔しさは忘れていないそうです。

身内を無くしたデヴィ夫人は、日本国籍を捨ててインドネシア国籍を取得。

名前も『ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ』となり、スカルノ大統領の第3夫人になりました。

デヴィ夫人は第3夫人でしたが、スカルノ大統領の寵愛を受けたそうです。

しかしインドネシアでの平和な日々は、長くは続きませんでした。

フランスへの亡命、再び日本へ

デヴィ夫人がスカルノ大統領と結婚したのは22歳の時で、当時スカルノ大統領は61歳。

約40歳という年の差婚が実現しました。

しかし結婚から3年後、インドネシアでは大規模なクーデターが起こり、スカルノ大統領は失脚します。

命の危機を感じたデヴィ夫人は、大使館に日本への亡命を頼みますが、断られてしまいます。

日本に戻れなかったデヴィ夫人は、フランスへ亡命。

10年ほどフランスで過ごしたあと、スカルノ大統領が亡くなったため、命をかけてインドネシアに戻ります。

当初デヴィ夫人は、スカルノ大統領が亡くなったら自分も死ぬつもりだったそうですが、

娘がいたため後を追うことはせず、生きる道を選んだそうです。

その後、正式な時期は分かっていませんが、デヴィ夫人は50歳を過ぎてから日本でも芸能活動を始めます。

辛口トーク、媚びを売らない姿勢が人気を集め、デヴィ夫人の出た番組は次々と高視聴率を記録。

近年では『世界の果てまでイッテQ』などのバラエティー番組にもレギュラー出演し、

元大統領夫人とは思えない体を張ったロケにも挑戦しています。

デヴィ夫人は年齢を重ねても美しく、さらに品の良さが目立つようになった気がします。

逮捕歴

1980年、インドネシアに戻って石油関連事業を興したデヴィ夫人ですが、

すでに後ろ盾のなくなったデヴィ夫人に力はなく、失意の中1991年にアメリカへ移住しました。

すでにインドネシアでの地位は失っていましたが、

世界的社交界の花としての人脈は生き続け、各国のセレブ達と交際を続けていました。

そんな中、1992年1月2日に事件が起こります。

アメリカのスキーリゾート地、コロラド州のアスペンで、

セルヒオ・オスメニャ第4代フィリピン大統領の孫娘である、

ミニー・オスメニャさん達と会話をしていた際、自分が侮辱されたと思って激怒したデヴィ夫人は、

なんと、手に持っていたシャンパングラスでミニーさんの顔面を殴打。

ミニーさんの顔に、37針を縫う大ケガを負わせたのです。

これにより、デヴィ夫人は傷害罪で逮捕され、禁固60日・罰金700ドルの実刑判決が出ることとなり、

34日間刑務所に収監されることになりました。

しかし、デヴィ夫人はこれくらいのことは意にい介していないようで、後に

「刑務所での生活は学生寮のようで楽しかった」と語っています。

この逮捕騒ぎもあってか、西洋社交界にも居場所がなくなったデヴィ夫人は、日本の芸能界へ本格復帰を果たします。

まとめ

根っからのセレブではなく、借金まみれの苦労した生活を送ってきたデヴィ夫人。

今のセレブなイメージからすると、ビックリでした。

チャレンジ精神を失うことが歳をとったことだと考えているデヴィ夫人は、いつでも気持ちは18歳なのだそうです。

そして、105歳まで生きることを目標としているとのこと。

自分の未来は自分で切り開くと言わんばかりに、自分の力で今の地位と成功を我がものにしてきたデヴィ夫人。

すでに80歳を超えていますが、今後のさらなる活躍に期待します。