震災で母親と祖父母を亡くしたものの、野球に打ち込むことでその悲しみを乗り越えることができました。
千葉ロッテマリーンズに所属している、プロ野球選手の佐々木朗希投手。
高校時代から最速163km/hを計測していたことから、「令和の怪物」とも言われています。
しかし一方で、彼は東日本大震災で被災し、とてもツラい経験をしてきました。
震災当時、佐々木投手は9歳。
野球を始めたのは小学3年生なので、野球を始めたばかりの頃に被災したことになります。
ツラい経験を乗り越え、今日まで野球を続けてこられた理由についてご紹介していきます。
佐々木朗希
佐々木投手は、2001年11月3日生まれで、2021年10月時点で19歳。
190cmという恵まれた体格を持っています。
小学3年生から野球を始め、ポジションはピッチャー。
高校時代には、高校生国内最速記録となる、163km/hを叩き出しました。
しかし、高校3年生の最後の夏は、岩手大会の決勝で敗れて甲子園出場はなりませんでした。
高校を卒業した後は千葉ロッテマリーンズに所属し、現在プロ2年目。
1年目は公式戦に出場することはなく、体力作りに励んでいました。
東日本大震災で被災
佐々木投手は、岩手県陸前高田市出身です。
陸前高田市は2011年3月11日に発生した東日本大震災で、津波の被害を大きく受けました。
震災が発生した当時、佐々木投手は小学校に通っていましたが、近くの高台に避難したことで津波の被害を逃れることができました。
また、仕事に出ていた彼のお母さんも無事でしたが、
浸水によって自宅のある陸前高田市まで帰ることができず、
無事かどうかも分からないまま母子別々に過ごしたそうです。
その後お母さんとは再会し、老人ホームでの避難所生活が始まって数日後、
「お父さんが見つかりました」と役所から連絡が入りました。
「見つかりました」という表現に、電話に出たお母さんはすぐにどういうことかを察したそうですが、
小学3年生だった佐々木投手はよく分からなかったそうです。
むしろ「見つかった」ということで、「お父さんに会える」と喜んでいたとのこと。
お父さんは亡くなっていて、役所の
「見つかった」とは「遺体が見つかった」ということを意味していました。
さらにその後、佐々木投手の祖母も遺体となって発見されましたが、祖父に関しては未だに行方不明なのだそうです。
お父さんは職場で、津波に巻き込まれたとのこと。
佐々木投手は当時のことについて、「当たり前が当たり前じゃないことを知った」と語っています。
被災して日常生活が送れなくなり、家族を亡くす悲しみを、佐々木投手は10年経つ今も忘れたことはないそうです。
震災で家族を亡くした佐々木投手を支えていたのは、始めたばかりの野球でした。
令和の怪物の野球人生
佐々木投手のお父さんは、長男である佐々木投手の兄に対し、とても厳しく接していたそうです。
一方で、佐々木投手と彼の弟に対しては、優しいお父さんだったようです。
そんな中、東日本大震災でお父さんが亡くなると、そのお兄さんが、自然と父の代わりを務めるようになったそうです。
お母さんが、特に何か言ったわけではありませんでした。
そのため、お兄さんは自分のすぐ下にあたる佐々木投手に対して、とても厳しく接するようになりました。
佐々木投手自身、「お兄さんに褒められたことはない」と語っています。
佐々木投手が野球で活躍し注目され始めても、お兄さんが褒めることはありませんでした。
自己最長となる8回を投げ、2失点の好投!「初回に荻野さんのホームランが出ず今日はどーなるんだろうと思いました笑」と #佐々木朗希 投手!#chibalotte #広報 pic.twitter.com/5Cb9UrbPvg
— 千葉ロッテマリーンズ (@chibalotte) September 10, 2021
それどころか、「お前レベルの選手はたくさんいる」と突き放したそうです。
そんなお兄さんの様子を見たお母さんは、「お父さんの面影を見た」と語っています。
一方、お兄さんから厳しくされてきた佐々木投手ですが、厳しくされるたびに
「常に兄を超えよう」と思っていました。
自分自身の負けず嫌いな性格も、兄の影響だと言っています。
その結果が、高校生最速記録となる163km/hを叩き出すまでに繋がったのかもしれません。
岩手県陸前高田市で被災した佐々木投手は、老人ホームでの避難所生活の後、大船渡市に引っ越します。
佐々木投手は、中学の頃から野球ではかなり目立つ存在で、強豪校である大阪桐蔭からも視察が訪れていたそうです。
大阪桐蔭といえば、何度も甲子園で優勝したことがある野球の名門で、
現在彼と同じ千葉ロッテマリーンズに所属する藤原恭大選手が在籍していた時には、
高校野球の歴史上初となる、2度目の春夏連覇を達成したこともあります。
また他にも、メジャーリーグでプレーしたこともある西岡剛選手や、
東京オリンピックでの金メダル獲得に貢献した浅村栄斗選手など、
数多くのプロ野球選手を輩出している学校でもあります。
そんな学校から、佐々木投手は野球特待の話が出ていたようです。
しかし佐々木投手は、大阪桐蔭からの話を蹴って地元の大船渡高校に進学します。
大船渡高校は父親代わりをしていたお兄さんも通っていた高校で、お兄さんは野球部OB。
実は佐々木投手のお兄さんも野球をしていて、高校時代には4番を任されていたこともあるそうです。
この進路選択は、少なからずお兄さんの影響もあったのかもしれません。
また、「中学から一緒にプレーしている仲間たちと野球がしたい」という理由で、大阪桐蔭を蹴ったとも言われています。
佐々木投手は震災によって、日常はいつ壊れるか分からないもの、当たり前ではないということを痛感しました。
だからこそ、今の仲間と野球を続ける道を選んだのかもしれませんね。
被災した当時は、周りから勇気と希望をもらったという佐々木投手。
プロ野球選手となった今は、「勇気と希望を与える選手になりたい」と抱負を語っています。
プロ2年目で公式戦デビューし、
「諦めないで一生懸命頑張ることを、言葉じゃなくてプレーで見せることができたら」と語っています。
まとめ
現在は千葉ロッテマリーンズにおいて、先発ローテーションの一角を担う存在になりつつある佐々木朗希投手。
9月にはメジャーリーグでも活躍した、あの田中将大投手とも堂々と投げ合い、佐々木投手は8回2失点。
互いに勝敗はつかなかったものの、この試合は佐々木投手が所属するロッテがサヨナラ勝ちを収めました。
#佐々木朗希 投手、プロ初めて8回のマウンドを投げ切る!5者連続三振を奪う好投!#chibalotte #MarinesBaseball #MarinesGoodPitch pic.twitter.com/TWoZvElycQ
— 千葉ロッテマリーンズ (@chibalotte) September 10, 2021
毎年震災のことを忘れたことはないという佐々木投手は、野球があったから悲しみを紛らわせることができました。
家族一丸となって震災と向き合ってきたからこそ、今の佐々木投手があるのでしょう。
今後のさらなる活躍に期待したいですね。