スター選手として数々の輝かしい成績を残しながらも、膝の故障などで2007年には左膝の軟骨手術をした清原和博さん。その後回復が思わしくなく、結局2008年には野球選手を引退します。

 試合終了後の引退セレモニーは華々しいものでしたが、終わってみると彼には一抹の寂しさがあったようです。これが後の薬物騒動と、体中至る所に彫り込まれた刺青へと繋がっていく結果となりました。

 しかし、最近では背中に彫られたタトゥーを消したのではないかという噂が出てきました。また、南野陽子さんとの関係も取り沙汰されているようです。

プロフィール

生年月日 : 1967年8月18日(51歳)
身長 : 188cm
体重 : 104kg
投球・打席 : 右投右打
ポジション : 一塁手
プロ入り : 1985年(ドラフト1位)
最終出場 : 2008年10月1日

1986年-1996年 : 西部ライオンズ
1997年-2005年 : 読売ジャイアンツ
2006年-2008年 : オリックスバッファローズ

 実家は電気店(東芝ストアー)を経営していました。父親以外の家族が巨人ファンだった影響で、自身も大の巨人ファンとして育っていきます。

 野球少年として成長し、30校を超えるスカウトの中から高校をPL学園と決めて進学。全国から精鋭の集まる野球部でエースの桑田選手と共に甲子園5期連続出場を果たし、「KKコンビ」と呼ばれて世代の代表的な人物となります。

 当然昔から憧れていた読売ジャイアンツに入団を熱望していましたがドラフト会議の結果、西武が交渉権を獲得。失意で涙を浮かべた彼の姿が放送されました。

 そしてついに10年の時を経てFAの資格を獲得し、念願の巨人への移籍が叶ったのです。しかし巨人へ移籍した頃から日焼け、短髪、ピアスなどファンション傾向に変化が現れ、『番長』のニックネームが定着するようになりました。

背中の刺青と南野陽子との関係

 清原さんの体には、大きな刺青があると言われています。それはファション感覚のタトゥーとは違い、ヤクザ顔負けのすごいものらしいのです。左肩からお腹にかけての大きな昇り竜が彫られていて、それはぐるりと背中にまで及んでいると言います。

 そのほかにも、右足のふくらはぎのところにも立派な刺青が彫られています。刺青は、小さな頃からの憧れだったようです。本当は選手時代から入れたかったようですが、母親からの強い反対で思いとどまっていたのです。しかし引退後、タガが外れてしまったかのように刺青を入れていったようです。

 当時の奥様の反対も聞かず、まるで刺青に魅せられたように彫っていったようです。離婚後、野球に関われない寂しさと子供に会えない辛さから、なお刺青に固執していったのでしょう。右足に彫られている2匹の昇り竜は2人の息子たちを思って彫ったものです。

 そして、左肩からお腹にかけての大きな昇り竜は、清原さん自身を表しています。自分が息子たちを上に導くという願いを込めて彫ったものだそうです。何だか胸が締め付けられるようですね。

 ところで話は変わりますが、南野陽子さんとの関係も噂になっているようです。これは、特に恋愛というものではないようで、南野さんのご主人が清原さんとタイアップしてスポーツ指導者を育成する新事業を始めるという話があったのです。そのために出資してほしいと関係者に持ちかけたようです。

 しかし清原さんに確認すると、そんな話は存在しないということでした。南野さんのご主人は、就任した医療法人の事務局長の立場を利用して、9,000万円の横領の疑いのある要注意人物のようです。薬物騒動でようやく再起をしようとしている清原さんに、とんだ話が持ち上がったようですね。

ついに刺青を消す!?

 刺青に強い憧れを持っていた清原さんですが、その中で背中の刺青を消したのでなないかと噂されています。左胸の昇り竜が背中にまで達していると言われていたのですが、彼の刺青画像を見ても背中には彫っているものは見当たりませんでした。

 覚醒剤使用で逮捕された清原さんは、判決後に「ハマの大魔神」として有名な佐々木主浩さんに刺青を消して更生することを約束したそうです。それで背中の刺青は消したのでしょうか?しかし、左肩からお腹にかけての刺青は歴然と残っています。

 そして、息子たちを表わしているという2匹の龍も、右足のふくらはぎにしっかりと入っています。これほどの刺青を消すなると大変そうですが、息子さんたちの親となり続けるためにも、そして指導者として野球界に帰るためにも刺青は消した方が良いように思えますね。

 そして、スター選手だった頃の輝きをもう一度取り戻してほしいと思います。多くのファンも、きっとそれを望んでいることでしょう。