結論

仕事は毎日夕方4時に翌日の仕事があるか確認の電話をするだけ、食費は1日250円、バイトもプライドが邪魔してできず、まさに地獄の日々だったようです。

今やテレビで見ない日はないくらいの売れっ子タレントとなった有吉弘行さんですが、

今のブレークが2度目だということを知っている人は、もう年配になってきているのではないでしょうか?

下積みから一気にブレイクし、そこから急降下して、地中でさなぎのように暮らしていたところから、

今のブレイクに至った有吉さんですが、そのさなぎの時期は地獄だったと回顧しています。

猿岩石のブレイク

有吉さんが森脇和成さんと組んだお笑いコンビ「猿岩石」が一躍有名となったのは、テレビ番組『進め!電波少年』の企画で行なった、香港からイギリスまでのヒッチハイク旅でした。

過酷な旅の様子をドキュメンタリーのように放送していたこの番組は、徐々に人気となり、

半年かけてロンドンに到着した時、猿岩石は全国区の人気者となっていました。

この模様を書籍化した「猿岩石日記」も250万部を越えるベストセラーとなり、

AKB48や乃木坂46のプロデューサーとしても有名な秋元康さんのプロデュースによって発売された、

「白い雲のように」という曲もミリオンセラーとなっています。

人気者の階段を一気に駆け上がった有吉さんですが、『電波少年』に出演する前はオール巨人さんの弟子でした。

しかし、弟子入りして8ヶ月後に謹慎を命じられ、活動休止となります。

そして謹慎中、オール巨人さんに黙って森脇さんを誘い、「猿岩石」を結成して活動を開始。

地元広島から東京に出てきた2人でしたが、しばらくは後楽園周辺で野宿をして過ごしていたようです。

上京したのが1994年6月、『電波少年』に出演したのが1996年4月ごろなので、およそ2年ほど売れない時期があったのです。


その間有吉さんは、下北沢のステーキ店「カウボーイ」で1年間、週6日7〜8時間アルバイトをしていました。

このお店はすでに閉店しているのですが、とあるテレビ番組で有吉さんの熱意もあり、「カウボーイ」の店長だった樋口さんが出演したことがありました。

樋口さんによると、当時の有吉さんはギャグを振られても特に面白い返しができるわけでもなく、ライブでスベって落ち込む姿もよく見られたそうです。

しかし彼の働きぶりは至って真面目で、お客さんの要望をいち早く察知して動くことのできる、観察力と察知能力の高い青年だったと褒め称えています。

有吉さん自身も、「カウボーイ」の仕事を天職ではないかと感じていたそうです。

当時は東京に出たばかりで住む場所もままならない中、お金も無く苦労していた有吉さんを受け入れてくれた「カウボーイ」の店長に、有吉さんも非常に感謝していました。

しかし、『電波少年』の出演が決まり、長期のロケになるため、泣く泣く「カウボーイ」を辞めることになったのでした。

再び地獄へ

「猿岩石」の大ブレイクによって、最高で月収2,000万円にもなった有吉さんですが、『電波少年』のヤラセ疑惑なども持ち上がり、次第に人気が降下していきます。

全国区のテレビ番組にも多数出演するようになっていた有吉さんでしたが、次第にその本数も減っていき、地元広島のローカルタレントと化していきます。

ついにはその仕事も次第に減り、全く仕事が入らなくなりました。

仕事が全然なかったどん底時代、有吉さんの唯一の仕事は午後4時に事務所に電話して翌日の仕事の確認をすること。「

有吉です。明日の仕事は何か入っていますか?」と電話で聞き、

「明日は何もないです」と明るく言われ、電話を切られる地獄のような日々が7〜8年続きました。

猿岩石ブームの時に稼ぎまくっていた有吉さんは、意外にも堅実だったようで、最大で5,000万円以上貯金しており、それを切り崩しながら生活していました。

まったく仕事がない時代、有吉さんはずっと家にいてテレビを観てばかりいたそうです。

やることといえば夕方4時に電話するだけ。

それで1日の仕事は終わりなのです。

電話の時間が近づくときは、怖くて震えていたとのこと。

ブレイク前はアルバイトをしていたのだから、またバイトをすれば良いのではとも思いますが、

「猿岩石の有吉弘行がバイトしている」などと思われることが自分の中で許せず、

バイトなどは一切せず、家賃月9万円のアパートで貯金を切り崩しながら生活していたそうです。

プライドが邪魔して、バイトする決意は固められなかったとのこと。

ブレイクしていた頃は給料制だったものの、仕事が減っていくと歩合制に変更され、ギャラは月7~8万円という状態が何ヶ月か続くように。

あまりの落差に、「近いうちに給料がゼロになるなぁ…。自殺しようかな?」とまで考えていたそうです。

貯金があるとはいえ、再度売れて収入が得られる見込みが全く立たないまま、いつかはゼロになる貯金だけで生活していく毎日は、不安ばかりが頭を回っていたことでしょう。

夕方4時の仕事が終わると、次にやることはスーパーの閉店時間まで待って、タイムサービスの見切り品を買いに行くことでした。

どんなにお腹が減っても、スーパーの閉店時間までじっと待って、

タイムサービス品を買って1日一食だけで済ます生活を続けていたそうで、1日250円で食費を賄っていたとのこと。

何千万円も貯金があるのに、これだけ質素な生活ができる有吉さんの不安感が、どれだけのものだったかは想像を絶するものがあるでしょう。

まさかの時の友

ブレイクしていた時にはいろいろな人が周りに群がってきましたが、人気の下降とともにその人たちも潮が引くように去っていきました。

そんな地獄のような時期にも、変わらず有吉さんに接してくれたのは、同じ太田プロに所属する事務所の先輩、ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんだけだったそうです。


再ブレイクした有吉さんは常々、

「どんな事があっても上島さんの老後の面倒は俺が見る」と宣言しています。

本当の苦労を知り、一番ツラかった時に助けてくれ、寄り添ってくれていた上島さんに心から感謝をしているのでしょう。

こういう点を見ても、有吉さんは義理堅い人ですよね。

まとめ

『アメトーーク!』で品川庄司の品川祐さんを「おしゃべりクソ野郎」と名付けたところから、毒舌芸人としての地位を再度確立していった有吉弘行さん。

天国と地獄を行ったり来たりしながらも、それでも諦めることなく新しいキッカケを探し続け、その細い糸を遂に手に取り、紡ぐことができました。

天国と地獄に翻弄されながらも、耐える強さと這い上がる強さを身に付けたからこそ、今の地位と幸せがあるのだということが、有吉さんを見ているとよくわかりますね。

先日、フリーアナウンサーの夏目三久さんと結婚した有吉さん。


『マツコ&有吉の怒り新党』で共演していた時、一時結婚間近という報道があり、それが実は誤報だったと報じられ、話題になったこともありました。

平坦な道ではなかったのかもしれませんが、無事に結婚まで辿り着いたのは、これまでの有吉さんの経験があったからこそなのかもしれません。

諦めなければいつかトンネルは抜ける、そんな思いを体現してくれる有吉さんだからこそ、ファンが根強くいるのでしょう。