サングラスでトレードマークになっているタモリさんですが、芸能界デビュー前のことについてご存知でしょうか?大学でジャズ研究会に入っていなかったら、今のタモリさんはいなかったかもしれません。
お笑い界の頂点に君臨するタモリこと森田一義さん。
彼は71歳になった今でもトップを走り続けています。
今回はそんなタモリさんの生い立ちを紹介します。
幼少期のタモリさん
タモリさんは1945年8月22日に福岡県福岡市に生まれました。
両親が3歳の頃に離婚したため祖父母に育てられます。
たまに別居している父親が家に来るとタモリさんがいろんな話をし始めますが、父親はそれが気に食わなかったらしくうるさいと言われてしまいます。
そのことからタモリさんは父親が嫌いになりました。
また、タモリさんは幼少期から他の子供より大人びており言葉として知らなかったものの「偽善」というものを知っていました。
ある日幼稚園はどういうところかと気になり1人で20分かけて見学に行った際、楽しそうにお遊戯をしている園児たちを見て自分には出来ないと入園を拒否したこともあります。
その結果家族は了承して幼稚園に行くことはありませんでした。
しかし何もすることがないので後悔することになり、小学生になるまでは毎日一日中坂道に立って人間観察を行うようになります。
小学時代のタモリさん
小学校に入学すると同級生の友達と遊ぶことが増え、一休さんのトンチ話やピアノに合わせて童謡を謳ったりしていました。
また、2年生になると学級委員長を務めます。
この時初めて人前で何かをやることに楽しみを覚えました。
小学3年生の時、下校途中に電柱のワイヤーが顔にぶつかり右目に針金が突き刺さるという事故が発生します。
そのため2カ月の休学をして治療しましたが失明したまま視力が戻ることはありませんでした。
タモリさんは目に障害を患ってしまいましたがスポーツが好きで野球をやったり他のスポーツ観戦にも興味がありました。
また、タモリさんは祖母に「男も料理ができないと将来困るから私が料理をしている姿を見ていなさい」と言われ毎日暇つぶしもかねて見ていました。
その結果大体の料理が作れるようになります。
小学4年生の時タモリさんは学年のボスに反抗し10人ぐらいに囲まれて殴られるということがありました。
その後親友だと思っていた人にも裏切られていたことを知ります。
そのことから友達が信じられなくなり世の中を恨み塞ぎこんでしまいました。
しかし人を笑わせることに興味を持ったタモリさんは卒業式で漫才を披露するなど回復していきます。
中学時代のタモリさん
中学生になると陸上部に入部し、短距離走の選手になり学年では2位の実力でした。
中学時代は授業中に教師の話を聞いていないふりをして質問にきちんと答えるという遊びをしていました。
中学2年生になるとタモリさんは近所の教会に通い始めます。
これはキリスト教に興味があったわけではなく、宣教師の動作や喋り方が面白いという理由でしたが嵐の日にも通っていたことから宣教師に信仰深いと勘違いされ感激されることになりました。
また、学校で弁論大会が行われたとき「放射能がどれだけ怖いか」をテーマにしてスピーチをします。
しかし入賞することは出来なかったのですが翌年に行われた際は「もっと挨拶をしよう」をテーマにスピーチすると優勝しました。
タモリさんは1回目の大会の時にスピーチの良さではなく教師に気に入られるテーマであるかどうかで優勝するかが決まると気づいたのです。
高校時代のタモリさん
高校生になると剣道部と吹奏楽部に入りトランペットを担当します。
他にもアマチュア無線クラブにも入り船の無線通信士に憧れを持っていたり居合道場に通い二段を取得するなど多くのことに関心を深めていました。
無線に興味があったので電気通信大学を受験したいと思ったタモリさんですが物理が苦手で断念します。
3年生の時後輩の家でジャズのレコードを聴き衝撃を受け、早稲田大学にモダン・ジャズ研究会があることを知り受験しようと決めました。
しかし受験するも不合格となり浪人することになります。
浪人生の間押入れの中に引きこもり、中国や韓国のラジオ放送を長時間聞くことを趣味とします。
また、座禅を組んで瞑想をすることもたまにありました。
大学時代のタモリさん
その結果浪人1年目は勉強が身に入らず2年目の1965年、20歳の時に早稲田大学第二文学部西洋哲学専修へ入学します。
大学生になると念願のモダン・ジャズ研究会に入りトランペットを担当しました。
しかし「マイルス・ディヴィスのラッパは泣いているがお前のラッパは笑っている」などと先輩に言われトランペットを3日で止めてしまいます。
その代わりマネージャーと司会を担当することになりその後に「大学対抗バンド合戦」というラジオ番組で学生バンドの司会として出演するとラジオの司会者に才能を認められました。
大学2年生の5月の連休に友人と旅行に行った際に学費の一部を旅費に当てたため3年生の時に学費未納となり抹籍処分となります。
しかしその後もモダン・ジャズ研究会のマネージャーは続けバンドの司会などで収入を得て暮らしていましたが、叔父に無理やり福岡に引き戻されます。
家族の勧めで朝日生命に保険外交員として勤務し2歳年上の女性と結婚し4年ほど勤務すると旅行会社に転職し、その会社の系列のボウリング場の支配人に転属になりました。
その後も多くの職を転々としていましたがいつもおかしな店員と評判になります。
27歳の時、サックスミュージシャンのコンサートが福岡で開催され大学時代のジャズ仲間がスタッフを務めていたことから、コンサート終了後に終電間際まで友人のホテルで話していました。
運命の出会い
タモリさんが帰ろうとして部屋を出るとやけに騒がしい一室のドアが開いていることに気づきます。
中を覗くとコンサートにいたジャズミュージシャン3人が狂言や歌舞伎の踊りを真似して遊んでいました。
そこにタモリさんは「俺の感覚と同じだ。これは俺を呼んでいる」と思い乱入し一緒に歌舞伎の舞を踊り始めます。
3人は動揺しますが1人が機転を利かせその1人をデタラメ朝鮮語でなじるとタモリさんはそれより上手なデタラメ朝鮮語で切り返しインチキ外国語の応酬に発展しました。
表情をつけてデタラメアフリカ語を話した際は皆呼吸困難になるほど笑っていたと言います。
始発が出る時間までこの騒ぎは続き最後にタモリさんは自分の名前を名乗って帰宅しました。
その後3人はタモリさんを探し出し再会を果たします。
この頃タモリさんは喫茶店のマスターをしていました。
地元では奇妙なマスターだと有名で客がウィンナ・コーヒーを注文するとウィンナーソーセージをコーヒーに入れて出すなどしていました。
再開を果たした4人は何度も遊ぶようになりタモリさんが30歳の頃に東京に呼ばれ、東京のバーで芸を披露して人気を博します。
素人芸人時代からの成り上がり
そして福岡で生活しつつ月1回東京で素人芸人として即興芸を披露するという生活が続きました。
ある日タモリさんの噂を聞きつけその芸に心酔したタレントが自らの特別番組へタモリさんを出演させることを決意します。
そしてその番組でテレビ初出演を果たしたタモリさんは多くの芸を披露して成功させました。
偶然その番組を見ていた黒柳徹子さんが凄いと褒め別の番組にも出演することとなります。
それを機に多くの芸能界の人脈が増え、30歳で芸能界に進出します。
この時タモリさんは誰の弟子にもならないこと、組織には属さないこと、頭をなるべく下げずに金を儲けること、色紙にサインをするときは名前の横に添えるモットーのようなものは持たないことを自らに掲げました。
31歳の4月に正式にメディアデビューを果たしレギュラー番組やタモリさん専用コーナーも獲得します。
このときタモリさんは普通の眼鏡に七三分けという真面目なサラリーマンのような見た目をしていましたが、他の芸人と芸風が違っていたためキワモノ芸人と考えられており気持ち悪がられていました。
しかし「オールナイトニッポン」という番組でパーソナリティを勤めると徐々にマニアックな層から人気が出てきます。
そして芸能界に入って5年目でお笑いオーディション番組の審査員として出演しました。
この時出演したとんねるずの芸に対してタモリさんだけが高評価を押して2人に崇拝されることになります。
35歳になるとバラエティ番組に出演することが増え知性的な部分と毒舌が受けるようになりファンが増え始め、深夜番組だけでなく昼も冠番組を持つようになりました。
多くのバラエティ番組で司会を務めた結果芸能生活たった8年でNHK紅白歌合戦の総合司会を務めることになります。
この当時NHKアナウンサー以外が総合司会を務めることは初めてでした。
その後、42歳のときに音楽番組「ミュージックステーション」のメイン司会を引継ぐなど長寿番組を多く作り出しました。
2002年4月には「笑っていいとも!」が放送5,000回を達成し「生放送単独司会世界最高記録」としてギネスブックに登録され、最終回を迎えた2014年3月には「生放送バラエティ番組単独司会最多記録」としてギネス登録に認定されました。
番組が終了してから友人たちに旅行など誘われることが多かったようですがしばらくは夫婦の時間を大事にすると言っており、2週間にわたるアジア旅行をしたりと夫婦水入らずの生活を楽しんでいます。
今では妻と世界一周旅行をすることが夢だと語っています。
その後2016年のタモリさんの71回目の誕生日会で引退を示唆する発言を行いました。
タモリさんは以前から親しい人には「古希になったら芸能界を引退する」と語っていましたが今でも現役で活動し続けています。