結論

犯行当時、ニュースになった際は上級国民だから逮捕されないなどの批判の声もありましたが、ついに判決が下されました。

東京・池袋で2019年4月、乗用車が暴走して2人が死亡、9人が重軽傷を負った事故で、その名を広く知られることになった飯塚幸三氏。

当事者の飯塚幸三氏の生い立ちについて、ここでは紹介させていただきます。

学生時代の飯塚幸三

飯塚幸三氏は、1931年61日、東京府内(現・東京都中野区)で生まれました。旧制中学生時代が太平洋戦争の末期という激動の時代と重なり、空襲によって自宅を焼失してしまいます。

それでも勉学の道を志し、東京府立第四中学校(現・都立戸山高校)、旧制浦和高等学校(埼玉大学の前身)を経て、新制の東京大学理科一類に進学しました。東京大学進学後は、工学部応用物理学科の計測工学専修に進み、卒業研究は日置隆一氏に師事、光学に関するテーマに取り組みました。

1953年に東京大学を卒業後、通商産業省工業技術院に就職しました。後の計量研究所である中央計量検定所に配属され、研究を重ねていき、日本における計量・計測の権威になっていきます。

こう見ると勉学一筋のお堅いひとなのかと思えますが、飯塚幸三氏には勉強や研究と同じくらい情熱を燃やしているものがありました。

それは、音楽です。

高校時代には合唱部に所属し、友人たちと活動を共にしました。東京大学ではオーケストラに在籍し、クラリネットを担当。また、研究所時代にも筑波バッハ合唱団なるものを結成し、自らボーカルを務めました。

若い頃に応えたあるインタビューの中で自身の性格や趣味について語っており、「興味の対象が多方面で凝り性なB型人間」と称しています。趣味は音楽、ジャンルは関心の赴くまま、自ら演奏もするし、音楽会にもよく足を運ぶ、新しい音楽ホールができるとわくわくしてくる、と発言しているように、芸術方面の感性にも優れていたことがうかがえます。

そのインタビュー記事の中で、少し気になる自己分析の記述もありました。

「わたしは怒り出すと止まらないんです。そう見えませんか?」

頭脳明晰、感性も豊かな一方、自分の感情をコントロールできない自覚もあったようです。

家庭での飯塚幸三

一方、家族を大事にする家庭人としての一面も持ち合わせていたようです。飯塚幸三氏を知る人物たちからは愛妻家として広く知られていたようです。合唱という同じ趣味を持つ音楽好きの女性と結婚し、二人で出かけては音楽を楽しむことも多くあったそうです。それを裏付ける、飯塚夫妻と親交のあるクリーニング店主の発言があります。

「最寄り駅から奥さんと一緒に相合傘しながら、肩を抱いて歩いていました。あと、2、3年前(2019年から)ですかね、奥さんが音符のマークの入ったユニフォームを店に持ってきて、これ、(年末の)第九のコーラスの時に二人で着たのよとおっしゃっていましたね」

仕事だけでなく、それ以上に奥様のことも大切にされていたのがよくわかるエピソードです。

これまでに歴任してきた肩書きは目を見張るものがあります。

旧通産省工業技術院長、計量研究所長、国際計測連合会長、計測自動制御学会会長、日本計量史学会理事、クボタ副社長、など錚々たる役職を経験し、それまでの功績が認められ、2015年には秋の叙勲・瑞宝重光を受賞しました。

ご覧の通りに、仕事も家族も、地位や名声や富もすべてを手にし、順風満帆すぎる人生を歩んできた飯塚幸三氏でしたが、すべてが一変する出来事が起こってしまいます。

暴走事故

2019年4月、87歳のときに、冒頭で記述した死傷事故を起こしてしまいます。場所は東京都豊島区東池袋4丁目でした。飯塚幸三氏の乗る乗用車(プリウス)が時速90km後半のスピードで約150メートルにわたって暴走、調査の結果、その間一度もブレーキが踏まれた痕跡はなく、赤信号を無視し3つの交差点に侵入して、同情していた奥様を含む計11人を死傷させました。

はねられた方々のうち、松永真菜さんと娘の莉子ちゃんの2名が死亡。

飯塚幸三氏は警察の取り調べに対し、車が暴走したのは「アクセルが戻らなかった。ブレーキが効かなかった」と車の不備が原因であったと証言しています。しかし、その後の調査では乗用車に異常は見つかりませんでした。そのことから、警視庁はブレーキとアクセルの踏み間違えである可能性が高いと判断されています。

「予約していたフレンチに遅れそうだった」との発言もあったらしく、運転当時に正常な判断ができていたのか疑問視されるきっかけとなってしまいました。

また、事故の1ヶ月前に日本計量史学会の会合で飯塚幸三史と会っていた内川恵三郎氏によると、飯塚氏は怪我のせいによるものなのか近年足を悪くし歩行が困難だった。事故前から杖を両手でついていたらしく、医師からも運転を控えるよう忠告されていたそうなのです。体調面からも、運転するにふさわしくない状態だったことがわかります。

すぐに逮捕されなかった理由とは?

この件で飯塚幸三史が日本中から大バッシングを受けるきっかけとなってしまったのが、事故を起こした後に逮捕されなかった、ということでした。交通事故を起こせばその場で現行犯逮捕が通例ですが、飯塚氏はそれがありませんでした。巷では、これまでの輝かしい経歴により警視庁が忖度した上級国民だから逮捕されないなどの批判が飛び交いましたが、飯塚氏自身も事故により入院の必要があったことや、高齢により逃走の恐れがないなどの理由で逮捕に至らなかったことが発表されました。しかし、退院後も逮捕されず、ますます国民感情を逆撫でする事態に陥ってしまいました。

飯塚幸三に科された判決

 飯塚幸三氏はその後、自動車運転処罰法違反(過失致死傷)の罪で送検され、検察により起訴されました。インタビューの中で飯塚幸三氏は「起訴されたことは、亡くなった方もいるし当然と受け止めている。本当に申し訳ないと思っている」と答えています。

飯塚幸三氏は「エンジントラブルで意図しない加速が起き、制御不能になりパニックになった」との供述を繰り返していましたが、2021年9月17日に禁錮5年(求刑・禁錮7年)の実刑が確定しました。